濱口桂一郎『若者と労働 「入社」の仕組みから解きほぐす』 抜書きとちょっぴり感想 その3
第3章 「入社」のための教育システム
1.「就職」型職業教育の冷遇
○「何の役にも立たない」者にならないための教育
p.112~113
企業側が欠員補充方式で、「必要なときに、必要な資格、能力、経験のある人を、必要な数だけ」採用するのであれば、新規学卒者には…「ある程度の必要な資格、能力を身につけているようにしておくことは、採用されやすくなるためには極めて重要なことであるはずです。新規学卒者が特定の職業に必要な資格や能力を身につけておくためには、その者が在籍していた学校で適切な教育を受けて、それらを取得しておくという仕組みがもっとも自然です。
そのような仕組みが職業教育というものです。…
…ジョブ型社会では、新規学卒者が「さしあたっては何の役にも立たない」者にならないように、学校教育制度の中に特定の職業に必要な資格や能力を身につけるための課程が設けられることが普通です。
○教育の職業的意義(レリバンス)とは?
p.114~115
これを言い換えれば、教育が仕事に役立つようなものであるようになっているということになります。このことを、教育社会学の用語で「教育の職業的意義」といいます。
一言でいえば、高校教育にせよ、大学教育にせよ、日本社会における教育の職業的意義は極めて低いものとなっています。
○職業教育冷遇化の推移
p.115~118
このような職業的意義を軽視する教育の在り方は、しかしながら、政府が一貫して進めてきたというわけではありません。意外に思われるかもしれませんが、かつて高度成長期までの日本政府は、職業教育を熱心に唱導していたのです。
…1960年代の教育政策では、職業教育の重点化、多様化が推進されたのです。
しかしながら、現実の社会はそれとは全く逆の方向に進んでいきました。1970年代以降は、職業教育は質的にも量的にも後退の一途をたどっていくのです。
本田氏はその理由として2つの点を挙げています。1つは、それまで同一労働同一賃金原則に基づく職務給を主張していた経営側が、職務遂行の力に基づく職能給に舵を切ったことに示されるような、日本型雇用システムの定着です。
今1つの理由は、1960年代に急速に進んだ新規中卒者の激減と、高校進学者の急増が、中卒=ブルーカラー、高卒=ホワイトカラーという学歴と職務の対応関係を崩壊、混乱させ、新規高卒者のブルーカラー職への採用が増大したことです。
…職能給のような職務を明確にしない日本型雇用システム自体が、教育の現実によってもたらされた面があるという説明です。
…学校で何を学んだか、何を身につけたかは就職時に問題にされず、偏差値という一元的序列で若者が評価される社会がやってきました。本田氏のいう教育の職業的意義の欠如したシステムです。
【感想】
「日本型雇用システム自体が、教育の現実によってもたらされた」という説明は斬新であり、驚きだった。順序が逆、即ち、前段で述べられているように、日本型雇用システムが、教育の非職業教育化を要請した、という側面のみで理解していたからだ。
偏差値による評価が教育の職業的意義の欠如したシステム、と言われるのは、なるほどその通りである。
2.「地頭がいい」人材を提供するだけの学校教育
○「入社のための普通教育」
p.119
…企業はもはやつれない教育界に対して人材養成をお願いする立場ではありません。企業内人材養成に耐えうる「地頭がいい」人材を提供してくれればそれでよいのです。…
はっきり言えば、学校は余計なことをせずに、優秀な素材を優秀な素材のままに企業に手渡してくれれば、後は企業がOJTできちんと育てていく、という発想です。
○学校と社会を貫く一元的能力主義
p.119~121
こうして生み出されたのが、学校教育と社会を貫く一元的能力主義です。
それを象徴するのが1970年代に教育界に広まった偏差値です。
…いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校も同様の機能を果たすようになります。なぜなら、そういう学校は優秀でない素材にもともと意味のない教育を施しただけなのですから、何ら付加価値は増えていないからです。
…教育界は、この多様性なき一元的序列付けという社会的根源には何ら触れることなく、偏差値が悪いとか、心の教育とか、ゆとりだとか、見当外れの政策を行き当たりばったりに試みるだけでした。
【感想】
裏から読めば、「教育界は一元的序列付けという社会的根源を見極め、この根源に対応するような政策を打ち出すべきだった(のに、しなかった)」となる。教育界の人々には痛い指摘だろう。しかし、一元的序列付けが(日本型雇用システムの定着によってもたらされた)社会的要請だったとするならば、いったい教育の側からどのようなアプローチが可能だったのか、という疑問は残る。
3.教育費は誰が払う?
○教育費を公的負担するジョブ型社会
p.123
問題は大学です。ヨーロッパの多くの国では、大学の授業料も原則無料です。それに対して、授業料が無償化されていない国々でも、大体給付型の奨学金によってまかなえるようになっており、日本のような貸付型…が原則という国はほとんどありません。
【感想】
第1に、ヨーロッパの多くの国については分かったが、ではアメリカは?という疑問が生じる。アイビーリーグに属するような大学では、授業料が高額であり、また給付型奨学金についても熾烈な競争がある、と聞いたことがあるが、この真偽や如何?
第2に、ヨーロッパの多くの国では大学の授業料も原則無料とのことだが、これらの国々で大学進学率はどの程度になっているのだろうか。もし少なからぬ若者が大学に進学せずに高校相当の教育までで就職するとすれば、それは何故だろうか。何故無料の大学に進学しないのか、ということである。「勉学に向いていないのであれば、大学に進学しなくともそこそこ幸せな職業生活を送れる社会である」からなのか。
○教育は親がかりのメンバーシップ型社会
p.123~124
…日本人にとっては、生徒や学生の親が、子供の授業料をちゃんと支払える程度の賃金をもらっていることが、あまりにも当たり前の前提になっていた…
…公的な教育費負担が乏しく、それを親の生活給でまかなう仕組みが社会的に確立していたことが、子供の教育の職業的意義を希薄化させた一つの原因というわけです。
…日本型雇用システムにおける生活給と、公的な教育費負担の貧弱さと、教育の職業的意義の欠乏の間に、お互いがお互いを支えあう関係が成立していたわけです。
【感想】
「お互いがお互いを支えあう関係」であれば、どれか1つを変えようとする場合、他の2つも変える必要があることになる。即ち、教育の職業的意義の欠乏を解消するためには、公的な教育費負担を増やし、生活給に頼らない教育費の負担のあり方を追求しなければならなくなる。この方策が民意に迎えられるだろうか。教育は公共財であり、社会が支えるべきものである、そうであるならば(所得や社会保障だけでなく)教育も再分配政策の恩恵を受けるべきものである、という考え方が人口に膾炙しなければ、難しいのではないか。
4.職業的意義なき教育ゆえの「人間力」就活
○「社員」の選抜基準
p.126
1つの割り切りは、新規学卒者の「能力」の代理指標としてその学歴水準それもどのランクの大学に入れたか、ストレートにいうと、どのランクの大学にしか入れなかったか、という指標を採用するという考え方です。
○ジョブ型社会の「職業能力」就活
p.127~128
欧米では、一部の有名大学を除けば入学するのはそんなに難しくはありませんから、…卒業を迎える頃には同期の学生がだいぶ減っているというのが普通ですから、卒業証書こそがその人の能力を証明するものだと一般的に考えられています。
そして、ここが重要なのですが、その能力というのは、日本でいう「能力」、つまり一般的抽象的な潜在的能力のことではなく、具体的な職業と密接に関連した職業能力を指すのです。
こういう社会では、言葉の正確な意味でのもっとも重要な就「職」活動は、必死で勉強して卒業証書を獲得することになります。
○メンバーシップ型社会の「人間力」就活
p.130
…90年代以降かなり急速に進んだ大学進学率の上昇と、日経連の『新時代の「日本的経営」』(1995年)を大きな画期とする「入社」システムの縮小の中で、「ほぼ間違いなく全員が自分の就職先を見つけ出すことができるようにな」るという前提までが崩れてくると、…あいまいな基準でどこにも「入社」先を見つけられないという事態があちらでもこちらでも発生してくるようになります。そして、そういった「人間力」による採用選考の在り方自体が問題意識に上ってくるようになったのです。
この「人間力」という言葉は、2000年代に入ってから文部科学省や内閣府の政策文書に登場するようになった言葉ですが、…本田由紀氏は、…「ハイパー・メリトクラシー」と呼んでいます。…日本の文脈ではむしろ1969年の『能力主義管理』で掲げられた「いかなる職務をも遂行しうる潜在能力」に極めて近いものであることが重要です。
ここは大変入り組んでいて、理路を解きほぐすのがなかなか難しいのですが、もともと日本の企業では、そういう「人間力」というのは、「入社」してから上司や先輩の指導の下でOJTを繰り返していくことでじわじわと身につけていくものであって、それゆえ「社員」の人事評価においては極めて重要な基準ではあったとしても、「入社」を決定する時点でそれほど高い「人間力」を求められるような厳格な基準ではなかった、というのが重要なポイントでしょう。
労働社会全体としては日本型雇用システムが変容していき、「社員」の範囲が縮小するようになっていって初めて、それまで「入口」段階ではそれほど決定的な重要性を持たなかった「人間力」が、それによって「社員」の世界に入れるか否かが決定されてしまう大きな存在として浮かび上がってきた、というのが、90年代以降の実相なのではないかと思われます。
【感想】
「人間力」という気持ち悪く個人的には忌避してきた言葉が、政策文書にも取り上げられていると知って大いに驚いたとともに、文部科学省や内閣府(の中の人)は一体どのような明確な定義でかかる言葉を用いたのか、問い質したくなった。更に個人的ではあるが、「人間力」なる言葉を掲げて採用活動を行っている企業には、後輩に対し決して「入社」を勧めたくない。
5.「人間力」就活ゆえの職業なき「キャリア教育」
○「キャリア教育」の登場
p.132~133
「キャリア教育」というのは奇妙な言葉です。
…大きく分ければ、職業観・勤労観といった職業意識に関する教育と、職業に関する知識や技能を身につけさせるという、文字面だけでみればまさに職業教育そのものであるようなものからなっているように見えます。
ところが、日本で過去十数年間熱心に取り組まれてきたキャリア教育とは、…特定の職業を前提としない、前提にしようとしてもしようがない、そうした社会で育ってきた生徒や学生に対して、具体的な職業というよりどころの全くないまま、ただ「望ましい職業観・勤労観」や「職業に関する知識や技能を身につけさせる」ことを求めてきた概念です。ジョブ型社会から見れば、ほとんど冗談にしかとれないような空疎な「キャリア教育」です。
○一般的職業教育の復活?
○就活スキル教育
p.135~137
より深刻なのは、いかなる具体的な職業も前提にしないまま行われる、「職業に関する知識や技能を身につけさせる」キャリア教育です。
一言で言えば、就活の場で企業にいい印象を持ってもらうことができるためのスキルを身につける教育です。
しかしながら、所詮OJTで長期にわたって観察するのではない以上、就活時点で示される「人間力」など大したものになるはずはありません。コミュニケーション能力だの、積極性だの、協調性だの、強調すればするほど、本の題名ではありませんが『就活のバカヤロー 企業・大学・学生が演じる茶番劇』(石渡嶺司・大沢仁著、光文社新書)といいたくなるでしょう。
しかし、それはまだ「社員」になったら否応なく必要になる能力なのだからやむを得ないと考えることもできます。もっと奇妙なのは、「社員」になった後にはもはや何の意味もなくなるのにもかかわらず、近年の就活ではあたかももっとも重要なポイントであるかのごとく強調されている「自己分析」なるものです。
【感想】
「コミュニケーション能力」も大嫌いな言葉だが、本書との関連で最近目にした次の記事を思い出した。
「コミュ力」って何だろう? 取り違える就活学生が急増
産経新聞 8月20日(火)6時25分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130820-00000500-san-bus_all
以下一部引用する。
経団連が毎年発表している「選考時に重視する要素」によると、企業が学生に求める力1位は「コミュニケーション能力」。今年はまだ発表されていませんが、なんと9年連続1位。就職活動の時期になると、各社揃って「弊社はコミュニケーション能力のある人材を求めています」と、説明会で話しているのを耳にすることが増える。なぜ各企業が「コミュニケーション能力」をそこまで重視するのか。
…私は、「コミュニケーション能力」とは、「相手と会話のキャッチボールが違和感なくできるかどうか」に尽きると思う。さらに、「コミュニケーション能力」は下記の3つに分類されると考える。
(1)話す力 …
(2)聴く力 …
(3)読む力 「読む力」とは、相手が聞いてくる質問の意図や背景を理解する力のことである。(2)と同様に、この「読む力」も弱い学生が多い。就職活動で例えるのであれば、面接の際に質問される内容を適切に理解しないで、聞かれたままを答えてしまう学生が多い。例えば、「あなたは周りの人からどのような人だと言われますか?」という質問に対して、「優しい人だと言われます」「面白い人だと言われます」と答える就活生も少なくない。面接官はこの質問の中で、「集団の中でどのような役割を担っているか?」ということを聞きたいにも関わらず、「優しい」などの回答であると拍子抜けを食らうことがある。伝えることに懸命になりすぎて、相手が欲している質問の意図を読み取ることができないのだ。…
…就職活動において、企業研究や自己分析などは無論重要であるが、それよりももっと先に基本的なコミュニケーションを訓練することから始める必要があるだろう。(「内定塾」講師 水本幸太郎)
こんな決死の跳躍を強いるような「読む力」なんぞ、くそくらえである。勤務先の採用活動がこんなことを求めていないよう、切に望むものである。
6.教育と職業の密接な無関係の行方
p.137
受けた学校教育が卒業後の職業キャリアに大きな影響を与えるという意味では、両者の関係は極めて密接です。しかしながら、学校で受けた教育の中身と卒業後に実際に従事する仕事の中身とは、多くの場合あまり(普通科高校や文科系大学の場合、ほとんど)関係がありません。これを…本田由紀氏は「赤ちゃん受け渡しモデル」と呼んでいます。
…その回路からこぼれ落ちる若者が大量に発生するという事態の中で、単なる弥縫策ではなく、雇用システムと教育システムの双方で本質的な解決を図る必要性が浮き彫りになってきました。
雇用システムの側における議論は次章以降で行いますが、それは必然的に教育システムの側に跳ね返ってきます。具体的には、現在の大学、とりわけ量的に大部分を占める文科系大学の在り方に対し、抜本的な見直しを要求することになるはずです。…
今までの「素材はいいはずですから是非採用してやってください」という受験成績による素材の保証主義ではなく、「これだけきちんと勉強してきた学生ですから、それは保証しますから、是非採用してやってください」というあるべき姿に移行するためには、大学教育の中身自体を職業的意義の高いものに大幅にシフトしていく必要があるでしょう。
【感想】
実に明快な論旨であり、全く付け加えることがない。故に以下は蛇足であり、個人的述懐である。
私は「受験成績による素材の保証主義」に恩恵を受けた側の人間であると自覚している。そして人は自分の受けた教育に意味を見出したがるものだと思う。私もその呪縛からは逃れられない。私の受けた大学教育は、確かに職業的意義には乏しいものだった。しかし一方で、多職能ホワイトカラーになるための教育としては、意義のあるものだったとも思う。即ち、リベラル・アーツを掲げる後期課程では1学年100人程度の学生で、大量の常勤・非常勤講師陣により受講する多くの授業は10人以下という恵まれた教育環境であった。特にマスプロに慣れた非常勤講師陣はかような環境をとても気に入ってくださったようで、タイトルが●●特殊講義であったとしても、「こんなに受講人数が少ないのであればゼミにしましょう」と仰り、結果として1週間の多くの授業はゼミになった。更にその結果、毎週膨大な資料(英語文献も多数)を読み込み、レジュメを切った。授業では発表の後、討論の時間があって、「しゃべれ話せ付加価値を増せ然らずんば死ね」「討論に加われないのであれば貴様は無だ」と言わんばかりの雰囲気の中、チャレンジしてはいなされるという経験を散々積まされた。あの日々が今の私を、少なくとも知的に踏み止まるという意味においては、支えていると実感する。この実感を本書の中でどのように位置づければ良いのだろう。つまるところ「幸福な学生生活だったのですね」で終わることになるのだろうか。
…続きは明日以降に。
(しかし、そうは言ったものの続きはどうしたもんですかね。hamachanブログ http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-d137.html でご紹介いただいたおかげで当ブログとしてはアクセス数が伸びてしまい、このまま抜き書きを続けると気に入った新刊の備忘録の域を超えて、新刊書の売行きを妨害しているような気もしているのですが。まあアクセス数も落ち着いたことだし、このまま各章の抜き書き&ちょっぴり感想を続けても良いのでしょうかねえ…迷います。)